
── その四、鯖斗の夜、樺良が微笑う ──
八
都院Bこと時央紀之は、微妙な立場に置かれていた。
入学した当初は、樺良の熱心な信奉者であった彼だが、猫君主の──《猫と狩人》としては──良識的で堅実な人柄に心酔し、以後、精神作用力で調節されている以上に忠実な部下となる。彼は猫君主体制下の《猫と狩人》の活動初期において、実動メンバーとして極めて重要な役割を果たした。その最大の功績は、猫君主の姉である超級剣姫こと王鳥すわんと、彼女が持つ超級幻我の前に出現し、その力を覚醒させるという大任を見事果たしたことだ。その後、超級剣姫の予想以上の急激な覚醒により、不運にも倒されてしまい、彼の役割は終了するはずだったが、猫君主の決死の救出劇により、からくも一命をとりとめた。
この事実が、都院Bを組織内で極めて特殊な立場に立たせる原因となっている。
彼は秘密結社《猫と狩人》において、猫君主Mこと王鳥まひると共に、組織の創始者谷々樺良の手によって、動物の存在体を半憑依された、いわば第一世代の《猫と狩人》である。その後、まひるの手によって生み出された、対人用としては申し分ないが、超級剣姫には劣る、真剣GやA鎖吐といった第二世代を経て、多重半憑依を成功させる以前の猫君主Mに近い、力はないが頭のキレる、第三世代のN篠遊園や久理数P。そして久理数Pの指揮のもと、対超級剣姫用に極限まで戦闘能力を高めた、K通やU暴徒といった第四世代。
こと、ここにいたるまで、多くの同志が生まれ、敗れていった。
敗者は《猫と狩人》だった記憶をなくし、ただの人間として生活している。彼らに共通していることは、一度でも超級幻我の刃に貫かれ、半憑依した存在体を引きはがされた者は、二度と《猫と狩人》にはなれないという事実。敗者を社員として再生する試みは、今もつづけられていたが、成功例はまだ報告されていない。
『超級剣姫に敗れたものは、二度と《猫と狩人》にはなれない』この大前提の唯一の例外が、都院Bなのである。彼だけが一度超級剣姫に敗れながら、猫君主Mみずからの手によって再び半憑依され、組織に復帰を果たしている。
都院B自身、なぜ超級剣姫に敗れたのに、自分だけが再び《猫と狩人》になれたかわからない。
いちおう、超級剣姫が覚醒直後だったため、浄気の力が不十分からであろうという、久理数Pの分析結果が報告されているが……
猫君主はその件に関して、ひたすら沈黙を守るのみであり、そのことがさらに、彼を組織内で特別視する風潮を生む原因となっている。
『都院B、Y吾怒を診てあげてちょうだい』
丸い眼鏡をかけ、メガネザルの存在体を半憑依させた、I氏照こと千路玉代(二十八歳女、音楽教師)が都院Bに声をかける。
『あ、はい、すぐ行きます』
都院Bはあわてて、きみどり色の奇妙な空間に駆け出す。
そこではさきほどまで、C鍵砂とY吾怒という社員たちが、模擬戦という名の死闘を繰り広げられていた。
都院Bは、ここがどこだか知らない。だが、そこが地球上のいかなる場所とも違う、異空間であることは認識している。ここでは、いくら暴れても、誰にも悟られない。それが、超級剣姫であっても。
『大丈夫ですか、Y吾怒』
都院Bは片腕を斬り落とされてうずくまる、鮫を半憑依させた高校生ぐらいの少年のもとにたどり着く。
『ふふん、だらしねー』
かたわらには、都院Bと同級の少年、ウグイスを半憑依させたC鍵砂が、あざけるように、緑色の羽を生やした腕を組んで立っている。
C鍵砂こと韮山来栖。第二世代末期に猫君主の手により誕生した彼は、かつて超級剣姫との戦闘中に、戦闘放棄するという、不名誉な経歴の持ち主だった。逃げたからといって処罰の対象になるわけではないが、好意的に受け取られるはずもない。特に気にする様子は見せなかったが、心中は穏やかではなかったであろうと、都院Bは思う。
そんなこんなで、ダラダラと《猫と狩人》にいたC鍵砂であるが、先日、久理数Pの新たな半憑依理論によって再調整され、超級剣姫と接戦できるだけの近代的な戦闘能力を身につけたのである。今日は、汚名挽回のためのデモンストレーション、といったところだろうか。
『C鍵砂、ちょっとやりすぎじゃないか』
都院BはC鍵砂を厳しい視線で見据えていう。
『弱いから負けた、ただそれだけさ』
C鍵砂は横柄な態度を崩さない。
『なら、さっさと超級剣姫と闘って、強いところを見せたらどうだ?』
都院Bのこの一言に、C鍵砂はあきらかに狼狽した。どんなに強かろうと、時期がきたと猫君主が判断するまでは、超級剣姫にギリギリ勝てないよう、調節されている。そして、爆発的に能力を増大させつづける超級剣姫に勝つのは、実際、至難の業なのだ。
『ふふ……い、今の俺じゃ、強すぎて奴を倒しちまうさ』
吠えてろ、ダメ鳥が!都院Bは心の中で毒づく。戦闘能力のみ肥大化したいまのC鍵砂に、むりやり都院Bの心をのぞけるほどの精神作用力はない。
都院Bはそれ以上、C鍵砂にかまうのはやめて、Y吾怒の治癒に入る。
それにしても……ずいぶん殺伐とした組織になったものだ、と都院Bは思う。
かつて、樺良が放棄した《猫と狩人》を、猫君主と二人で一からやりなおし、ここまで育ててきたというのに、今ではまるで、他人事のようにしか思えなくなっている。確かに組織は強くなった。質、量ともに、《猫と狩人》の理想を実現するに足る組織力を身につけつつあるのは都院Bも認めざるをえない。
だが何か、微妙ななにかが狂いはじめているような気がしてならなかった。それは、非常に微妙な違和感であり、都院B自身、それをはっきりと指摘できないのがもどかしかった。
『ち……やられたな』
Y吾怒が毒づきながら、むくりと起きあがる。
蒸発したはずの腕は、すでに元通りに復元されており、外傷はまったくなくなっている。
都院Bとしては、ただ治れと念じているだけなのだが、そうすることで意図した箇所が元にもどるのだから、やたらと便利である。
戦闘面においては、久理数Pの技術をもってしても、もはや超級剣姫に対抗するべくもない都院Bであるが、彼が持つ治癒能力は、現在の《猫と狩人》の中でも重宝されていた。因果律を調節し、個人の傷をなかったことにできるという彼の能力は、今もなお組織内で最高の能力をほこる。もっともその裏には、ただひたすらに戦闘能力のみを追求し、他の能力を開発するゆとりがないため、破壊活動の後始末などの修復活動は、都院Bをはるかに上回る超級剣姫の因果律修正力に依存しきっているという事情もあったのだが。
『やほー!』
突如、背後の空間に気配が出現した。
都院Bにはそれが猫君主のものであることがわかっていたので、親しみを込めた目でふりかえる。そこには、猫君主Mをはじめとして、それぞれ、ライオン半憑依させた、N篠遊園やとペルシャ猫を半憑依させた久理数Pといった、《猫と狩人》の重鎮たち。
少しはなれた場所に立つI氏照が、猫君主Mたちに軽く会釈をしている。
『……?』
都院Bは気がついた。
集団の中に一人、半獣化していない少年が……あれは……
そこで都院Bの認識は、途切れる。
次に気づいたとき、彼の足元には、辛うじてそれとわかる、C鍵砂とY吾怒の残骸が転がっていた。また仕事のようである。
九
超級剣姫という演劇は、星辰と呼ばれる世界が舞台である。中央政府である北極五星の崩壊により、麻のごとく乱れる世、数奇な運命によって退魔の剣を振るうことになった流浪の姫、超級剣姫。退魔剣、超級幻我を振るい、人民に害成す存在を倒しつづける超級剣姫だが、民衆にとって、彼女は必ずしも英雄ではなかった。
自分の手にあまる存在を倒す力をもつものは、人々にそれとと同等の恐怖を与える。怪物の被害に苦しむ人々の開放者であるはずの超級剣姫は、結局のところ、人々に恐れられ、孤独な旅を続けることになる。
今回、横浜市立烏鷺帆中学校演劇部が、文化祭で発表するのは、このうち第三部にあたる参宿の地での物語。
淳祐八年、超級剣姫は星辰二十八宿のうち西方、白虎七宿の一つに数えられる、参宿の地を訪れる。そこは、三つの巨大な聖塔がそびえる地として知られていた。だがいまは、背に真空管を林立させた怪物、弩霊土竜の脅威にさらされている。当地の住人たちは、もとは聖塔の守護獣であった弩霊土竜になすすべもなく、その背中から放出されるという毒の光、呪波を防げると信じて、白い布で街中を覆っていた。
かの地に逗留することとなった超級剣姫こと天燕玲、北辰の血統──つまり皇族──にしか許されぬ超級白布の衣を身にまとい、超級風水を基礎として仙境より湧き出づる御水を糧とする、三ツ眼の蒸気剣、超級幻我を振るう、絶世の佳人である。
はじめは意図的に燕玲を避ける参宿の人々。だが、彼女が弩霊土竜の分身である群体素子、飼子虫を一刀のもとに切り伏すのを見て、弩霊土竜退治を依頼する。金では動こうとしない燕玲。だが、超級幻我の精霊、鳳凰ゲンガが語るには、正史いわく、かつて参宿が折音と呼ばれていた時代、かの地は異界との交りがあり、その転移のための門として、三つの聖塔が造られたのだ。時代は流れ、いま星辰は月界や青界との交わりを断ち、全ての転移は禁じられている。参宿の聖塔とて例外ではないが、その守護獣が暴走したということは、その機構が完全ではなくなったということであると。その言葉に動かされる燕玲。彼女は、真の故郷へ帰還する術を求めて旅をしているのだ。
背後に三つの聖塔が吃立し、その呪波によって素子と基盤に還元された荒野にて、弩霊土竜と対峙する超級剣姫、燕玲。威嚇に強烈な呪波を放つ弩霊土竜。だが、さしもの呪波も、彼女が纏う超級白布には通じない。かまわず燕玲は戦の理をを現わす超級唱歌を唱え、蒸気吹く剣に退魔の力、浄気を宿らせる。
死闘
勝利する燕玲。
だが、弩霊土竜の消滅と同時に、三つの聖塔も崩壊してしまう。手がかりが、また一つ消滅したのだ。弩霊土竜の脅威から開放された参宿の人々はしかし、聖塔が破壊されたことを理由に、燕玲を追い出そうとする。それに反論するでもなく、天狼の方角へ去る燕玲。その後、参宿の地は平穏な日々が続いたが、沙漠化によって緩慢に衰退していく。人々は、かつての参宿の繁栄と、超級剣姫の伝承にすがり細々と生活するのみ。燕玲が、もとの世界に戻れたかは、定かではない。だが、星辰には燕玲の冒険の足跡が、無数に残されているという。
以上が、演劇『超級剣姫──参宿呪波──』のおおまかなストーリーである。高貴な血筋の人間が、故あって放浪するという、いわゆる貴種流離譚であり、さらにいえば、一昔前の時代小説の主人公のような、寡黙で孤高なキャラクターが主役の勧善懲悪劇なのだ。はっきりいって暗い内容の物語なので、すわんにはあまり感情移入できないのだが、長年あたためられてきただけあって、ディテールがおそろしく綿密に設計されている。
メインの話に登場しない裏設定が山のようにあり、また何度も脚本が練りなおされているので、これとは違う展開のストーリーが無数に存在するらしい。歴代演劇部員でも、超級剣姫という物語の全貌を理解している人間は一人もいないのだとか。上演時間内で物語を完結させるため、これでもかなり、簡略化しているようだ。
「そもそも、誰がこの物語を創ったのかしら?」
すわんのそんな疑問に答えられる人間はいない。すべては時代の闇に消えている。
むろん、そんなことは今のすわんには何の関係もないのだが。
今、彼女にとって重要なことは、《猫と狩人》の野望を粉砕することであり、同時に演劇『超級剣姫』を成功させることである。
ここ数ヶ月で、すわんの演技力はすさまじい上達ぶりを見せた。特に殺陣に関しては、まるで本当に死闘を繰り広げているかのような迫力を身につけている。
すわんは顔や手足の造りが異様に小さいので、TV役者としてはともかく、直に鑑賞される舞台役者としてはかなりハンデがある。だが、それを補ってあまりある躍動的な動きによって、圧倒的な存在感を獲得していた。
谷々鯖斗による指揮のもと、次々と完成する舞台道具と、そこで演技するすわんの相乗効果は、舞台を異世界に変貌させるのに十分なものである。
舞台衣装である、超級白布を身にまとい、演技をするすわん。
鯖斗の作だけあって、動きを妨げることなく、かつ演技を大きく見せる工夫がなされている。
いま練習しているのは第三幕、参宿の街を襲撃した群体素子、飼子虫を撃退する場面。
残る飼子虫はあと三体。
飼子虫を突き刺すつもりで手前の床に剣を振り降ろすすわん。
同時に飼子虫が活動を停止する。
いまは、斬ると動きを止めるだけだが、本番では留金が外れて四散する予定である。
あと二体。
跳躍して襲いかかろうとする飼子虫の手前の空間を、真一文字に斬り裂く。
渾身の一撃の余韻に片膝をつき、右手だけで剣を振り上げるポーズを決めるすわん。
あと一体。
大きな動作で剣を構え直す。
超級幻我の切っ先が、最後の飼子虫を両断しようと動く刹那、すわんは後ろをちらりと見る。
同時に、超級幻我が蒸気を噴射し、その反動でくるりと振り向くと、背後からの一撃を剣で受けた。
寸断された、円筒形の何かが飛ぶ。
今までの大きな動きを見慣れた目には、あまりにも小さく、早すぎる挙動。
それが、すわん本来のスピードであり、対する敵も、彼女と同等の実力を持つ。
《猫と狩人》の襲撃である。
体育館を壊滅させるに足る、死闘。
振るう刃の切っ先は、とうの昔に音速を超えている。
今までの演技とはまったく違う、だがあくまでも超級剣姫を感じさせる、無駄のない、神速にまで研ぎ澄まされた動き。
そして、蒸気が浄気となり、邪魔払拭の刃となる瞬間が訪れる。
狩人名、T楚分こと演劇部三年生、園場鍵利。
象の存在体を半憑依させた彼は、必殺の一撃をすわんの後先考えない突進によって潰され、そのまま無数の傷口から浄気の糸がたなびく少女に斬り倒される瞬間、かつてモーションをかけて邪険にされた、千春御ミキの言葉を思い出す。
『あの、とっても興味あるんですけど、王鳥さんと一緒にかえる約束してるんで、彼女と一緒ならいーですよ』
だから、この女とはヤなんだよ……超級幻我に両断され、薄れゆく認識の中で、彼はふと、そんなことを考えていた。
十
九月末、狩人名、久理数Pこと須磨チエリが、《猫と狩人》に対し反乱を起こした。
十一
《猫と狩人》が、王鳥すわんへの定期的な襲撃を停止して二週間、まひるは相変わらずノーコメントを通している。
なにかしらの混乱状況が発生しているのは容易に推察できたが、その詳細は不明のまま。
超級剣姫の発表が予定されていた文化祭は、学校周辺で謎の暴行未遂事件が発生しているという理由で、十月半ばから中間試験後の十一月末に変更される。
実害がないにもかかわらず、この決定に不満をもらす者はいない。
精神作用力が影響しているのは明白だった。
また、この件とは別に、《征服者》という組織の介入が、まひるから警告されていたが、こちらも襲撃がなくなった時期を境にすわんの周辺に現れなくなっている。
まひるは見るからにやつれていた。
ねこっぽく表現すれば、毛ヅヤが悪くなったといえばいいだろうか。
ため息がちになり、ごはんのおかわりもしなくなった……もっとも、パセリ以外は残さずキチンと食べていたが。
両親も、そんなまひるの様子にき気づいているようだが、あえて口出しはしない。
まひるから相談しない限り、子供の問題に介入するつもりはないのだろう、というのが鯖斗の意見だった。それにならい、すわんもまひるにとやかくいうのをやめる。
それから数日後、まひるはすわんに話しかけてきた……声に出さずに。
『おねえちゃん、助けてほしいんだけど』
十二
なぜ、久理数Pが《猫と狩人》に反抗できたか?それは、きわめて単純な理由だった。
彼女は決して、精神作用力によって調節された禁止事項を犯したわけではない。
久理数Pはこう考えていたのだ……《猫と狩人》の理想をより効率よく実現するためには、猫君主の指示に従うよりも、自分で直接やったほうがいい、と。
彼女はこれまでの猫君主の行動を、独自に検証してきた。
なりゆきとはいえ、谷々樺良から《猫と狩人》の主権を簒奪し、以降、理想実現のためここまで組織の力を拡大したのは評価できる。
だが、細部を検証すると、あまりにも無駄な行動が多かった。たとえば、動物虐者に制裁を加え、その行動を通して《猫と狩人》をマスコミに露出させ、社会的な認識を高めるといった行動は、単純に樺良が初期に構想していた計画をそのまま実行しただけである。
感情的な行動を、信念にすりかえて恥じない樺良のスタイルは、彼が主権者であれば正当化もされるのだろうが、恒久的に動物にやさしい世界を創造するという、《猫と狩人》の基本理念からすれば、まったくといっていいほど意味のない行為だった。
猫君主は、この愚考を修正するのに一月以上かかっている。ひとえにそれは、姉のすわんがもつ剣に、自分が多重半憑依させた存在体の残りが宿っていることを利用する、というアイデアを思いつかなかっただけのことなのだ。
その後の手際も、決して評価できない。猫君主の判断ミスや、機会の喪失は無数にある。
結局のところ、猫君主が唯一にして絶対的に成功しているといえるのは、猫君主Mとして樺良に調節された直後、自力で多重半憑依の儀式を成功させたことだけなのだ。こればかりは久理数Pも全面的に賞賛せざるをえない、てゆーか、なぜここまで完璧に成功したのか教えてほしいぐらいである。
当時の状況を可能なかぎり調査し、これまでの経験で得た応答係数をもとに再現したシミュレーションでは、あの儀式が成功する確率は、一パーセントどころか限りなくゼロ。ただ、理論的に可能性があるというだけの無謀な試みを実行し、しかも成功させてしまうあたり、恐いもの知らずというか少年マンガの読みすぎとしか思えない。
あれだけ巨大な力が得られれば、多少のミスはどうとでもなる……という論理は久理数Pには通用しなかった。猫君主の持つ、統計学的に分析できない不確定要素が、プラスに作用するとは限らないからである。
いままで何とかやってきたからといって、今後もこんな不安定な指導者にまかせておくことはできない。彼女は、それで自分を納得させることができた。それが《猫と狩人》にとって最良の手段であると確信できるかぎり、《征服者》と内通することも、猫君主に敵対することも、精神作用力の調節による影響下での個人の自由として、認められる行為なのである。
そして、そんな久理数Pの考えを、猫君主は見抜けなかった。現実として、久理数Pの行動がうまくいっているという事実が、彼女の確信を補強する。
こうして久理数Pは、かつて猫君主が樺良にしたように、自己の理性に基づいて、反乱を決行した。
結果、十月中旬現在、《猫と狩人》の構成員のうち約半数が久理数Pの手中に落ちている。
彼女は相手を説得することなく、意志のない人形とすることで猫君主から手足を奪った。
《征服者》の組織力を利用して独自に半憑依を行い、仲間を増やす。
秘密結社《征服者》の首領、イングマル=ポートマン。彼は谷々家の創始者であり、明治時代にロシアから移民してきた神秘主義者、ターニャ=ジーフェルスという女性の縁者で、樺良が基にした半憑依理論とほぼ同じ情報をもっている。そして、独自のルートで極東の島国である日本で半憑依が実践されていることを知り、その技術を入手することを目的に、エージェントを送り込み、ついに《猫と狩人》の半憑依の主任技術者である久理数Pを引き込むことに成功した。
彼は巧みに久理数Pを操縦している。あくまでも久理数Pの計画を援助させてもらう、というスタンスを崩さずに、その実、必要な情報は根こそぎ吸収し、彼女を手駒の一つにしてしまった。
理詰めでしかものを考えられない相手ならば、進める道を狭めてやるだけで、最善の判断としてこちらの思い通りに動かすことができる。世間知に長けたイングマルにとって、頭でっかちの中学生を操るなど、精神作用力をシールドして、相手に心を読まれるのを防ぐだけで十分可能だった。
結局、主導権はイングマルが握ることとなる。
久理数Pはその合理的精神によって、《猫と狩人》の理想実現のためにはイングマルに絶対服従しなければならないと確信させられてしまった。もはや反抗することは、精神作用力による調節によって、禁止されている。
《猫と狩人》は、崩壊の危機に直面していた。
猫君主は、N篠遊園が残した忠告──彼は組織の重要人物として、まっさきに捕囚されていた──のに従い、Rの)投入を決意する。
そして、《征服者》の降伏勧告を拒絶した。
十三
前後を山に挟まれた谷あいの土地に、まるで眼を見開いたように丸く膨らんで、互いに絡み合うように存在する、横浜市中区烏鷺帆町と幌巣町。
その、丸い摺り鉢状の土地の烏鷺帆町側に、王鳥すわんの家がある。
道路ぞいに面して建てられた、二階建の瀟洒な建物で、元は花屋だったらしい。
設計思想が和洋折衷のためか、道から見て手前は洋風、奥は和風という造りになっている。
季節は秋。庭やベランダ、窓際などに造られた花壇や鉢植には、母あずさが丹誠こめて育てた、セントポーリア、コスモス、ハルコギク、ヤリケイトウ、クジャクスター、オンシジウム、リンドウといった季節の花々が、見事な共演を見せていた……本来は。
すわんは二階の屋根の上で、剣を手に油断なく周囲に目を配っていた。
彼女の視界に映るすべての方向、半径百メートルの円内にある家屋は、銃弾と爆風により完全に倒壊している。そして半径二十メートルの円内には瓦礫の他に、かつては物言わぬ《征服者》の尖兵であり、さらに前は《猫と狩人》の構成員だった半獣人たちの残骸が何体か転がっていた。
その瓦礫と残骸の円の中心部に唯一、残るのがすわんの家であり、その家も手前の洋風建築の部分を残して、和式の部分は瓦礫に飲み込まれている。
ふと、すわんは左手の中指で、眉間を押し上げるモーションをしかけて、止める。
今、眼鏡もコンタクトも使っていないことを思い出したからだ。
だが、周囲の状況はよく認識できている。
超級幻我が覚醒し、超級剣姫、天燕玲と同等の能力を身につけて以来、裸眼での両眼視力〇.三はどこかへ行ってしまった。
単純に、近視が解消されたわけではない。眼鏡やコンタクトが合わなくなったわけではないのだ。つまり裸眼でも、眼鏡でも、もちろんコンタクトでも同じに見えるよう、眼のほうが勝手に調節してくれるのである。すわんは眼鏡をかけるのが嫌ではなかったし、コンタクトをこまめに洗浄するのに密かな喜びを感じているわけではなかったので、グラサン気分で眼鏡をかけたりかけなかったりするのは、ちょいと楽しかった。時々自分でも、かけてるかどうかがわからなくなって、かけてもいない眼鏡をずり上げようとしてしまうのはご愛敬だが、この能力だけは、浄気の力に目覚めてよかったなと素直に思う。
その便利な眼が、飛来する小さな物体を捕えた。
すわんは落ち着いて、それを剣で受け流す。
剣と金属がこすれ合い、瞬間、火花が散った。
徹甲弾に存在体を込めた、対戦車ライフルによる狙撃である。
ロケットランチャーのような音速以下の飛翔体は、簡単に撃ち落とすことができたし、超音速で飛来する弾丸でも、落ち着いて軌道を見切れば剣でガードすることができた。そもそも、存在体が込められた兵器といえども、拳銃やライフルといった小火器の弾なら、たとえ直撃したところで、傷口から少し蒸気を吹くだけで、どうということもない。携行できる兵器としては、戦車の装甲を撃ち抜くための対戦車ライフルだけが、唯一すわんに有効なダメージを与える可能性があった。
とはいえ、さすがにすわんも、数万発もの砲煙弾雨をあびせされると、いいがげん眼が慣れて、なんとなく弾丸すら撃ち落とせそうな気がしてくる。
ふと、足もとの王鳥家で眠る、両親のことが脳裏をよぎる。注入した紅浄気の波動は、二人がまだ、奪取されていないことを示していた。
足もとの西洋建築も、倒壊はまぬがれているものの、銃弾により無数の穴が穿たれ、家を彩る花も大半が散っていたが、要は飛翔とあずさ、王鳥夫婦がここにいさえすればイイ。あまり気分のいいものではないが、このさい、肉体的なダメージは無視していた。二人が調節され、すわんやまひるの敵になることを防げるなら、それくらいは我慢すべきだ。
戦闘開始から八時間、なんとかこの調子なら、ここを死守することができそうである。
約束は守った。あとは、まひる次第。
敵が移動している。
先程の一撃で、すでに最後の襲撃者の位置は把握できていた。
だが、とどめはささない。
狙撃者は、次の一撃を狙っている。
それをあえて放置するすわん。
次こそは、あの超音速の弾丸を撃ち落とす、そのために、わざと泳がせているのだ。
狙撃者が、とあるビルの影で停止した。
来る!
すわんは一つ、深呼吸をして一撃に備える。
ビルが光った。
だが、飛来したのは超音速の弾丸ではなく、亜光速の中性粒子ビーム。
瞬間、すわんの眼球が漆黒にそまる。
驚異的な暗順応により、ビームの光量に眼を焼かれないよう、自動調節されたのだ。
そして、彼女の暗黒にそまった視界の中心に、迫り来る光の塊がはっきりと見えた。
だからギリギリそれに合わせ、ありったけの力をこめて、超級幻我から伸びた浄気の刃をぶつける。
ビームを斬るつもりで放った浄気は彼女の意志を反映し、物理的にまったく無駄のない鋭角と、反射率ほぼ百パーセントの鏡面をもつ、クサビ型の壁を形成し、〇.五秒のビーム照射を二つに分ける。
六対四の比率で偏向したビームは背後の鷺山に突き刺さり、沸騰した土がはじけ飛ぶ。
照射の終了と同時に消滅する、浄気の刃。
ビーム砲が搭載されていたトレーラーは、照射と同時に自爆、四散している。
いくつかの爆音と、衝撃波。
急激な気圧変化により発生した上昇気流によって捲き上げられる、キノコを思わせる形の塵。
敵は一掃された。
無論、すべてはなかったことになる。
《征服者》の襲撃者の最後の切札、存在体粒子砲『ファナーリク』。小規模な核爆発をエネルギーに、一発だけ発射可能な必殺武器。意志のない人形と化した《猫と狩人》の構成員も、近代兵器に存在体を付与したエージェントも、この一撃のための布石でしかない。
八十年代にSDI、戦略防衛構想とよばれた宇宙兵器開発計画に対抗すべく、対立勢力が開発したASAT、対衛星攻撃兵器。懐中電灯という極秘名で開発されたものの、SDI構想の中止と政変により放棄されていたものを、《征服者》が開発者ごと抱え込み、対存在体半憑依者用に完成させたものである。
ビーム兵器の照射速度は光速とほぼ同じ、秒速にして約三十万キロ。弾丸の速度はマッハ三、秒速約千キロだから、単純計算でおよそ三百倍にもなる。弾丸が見切れるかどうかというレベルのすわんによけられるはずがない。いや、そもそもこの世に光速より早く動けるものは存在しないのだから、反応するどころか、光を認識したと同時に蒸発しなければならないはずだ。にもかかわらず彼女は、迫り来る中性粒子ビームの動きが見えたと主張し、実際に迎撃している。
当然のことながら、飛来する物体を認識し、それを迎撃するためには、物体が到達するよりも早く反応しなければならない。超級幻我によって力を倍加させているとはいえ、すわんが物理的な反応スピードにだけ頼っていたとすれば、超音速の弾丸は撃ち落とせたとしても、同じ要領で亜光速の中性粒子ビームを撃ち落とせるわけはない。認識力、反応神経は、人間の限界をとっくに超えてはいるものの、スピード自体はせいぜい、手足の末端が音速を超える程度。音速以上で飛来する物体を、視認してから迎撃していたのでは、はじめから対処能力に限界があった。だからこそ、必殺の一撃になるはずだったのだ。
鯖斗は、いまさら言ってもしょうがないと知りつつも、口に出さずにはいられない。
「なんて非常識な……光を斬るなよ」
すわんは、困った顔で鯖斗を見た。
「だって……見えたんですものっ」
後日、谷々兄弟が、すわんの主張を合理的に説明するために立てた仮説によれば、彼女はごく短時間ではあるが、未来を見る能力が備わっているのだそうである。つまり、一瞬先の未来を予知し、それを超スローモーションで認識することで、光の流れにすら反応できるというのだ。実際は、敵の攻撃を先読みしているわけで、すわんは光の動きを見てから動いているつもりでも、《征服者》のエージェントからは、中性粒子ビームを照射する寸前に浄気を放ち、ビームを斬ったように見えたはずなのである。もっとも、実際は一秒未満の出来事なので、たとえ観測者がいたとしても、実際に認識するのは困難だろうが。
さらに谷々兄弟は推論を進め、これは、すわんが咄嗟に開花させた能力ではないとしている。彼女は当初から、本来の反応速度では対処できないはずの攻撃に対応するために、一瞬先を予見する能力を使い、現在をスローモーションで認識しながら闘っていたはずで、だからこそ、今回のビーム攻撃も、同じ理屈で対処できたのだという。つまり彼女は、理解し、反応する意志がある限り、いかなる攻撃にも対処できるだけの、時間軸を無視した知覚力をもっている、ということになる。
もっともすわんには鯖斗の本音として、そうとでも説明しなけりゃ、光を見てから斬るなんて芸当、どう説明すりゃいんだよ?と言いたいように思えたのだが……
十四
みなとみらい21地区にある、とあるビル。
《征服者》の隠れ蓑となっている商社のオフィス。
大きな窓から、横浜の港街が一望できる部屋で、《猫と狩人》と、《征服者》の首脳が対峙している。
一方は激怒し、混乱し、まともな判断ができなくなっており、もう一方はなかばあきれ、その混乱ぶりを呆然とながめていた。
『貴様……貴様のような小娘になにがわかる……私がこの世界から受けた屈辱……私はこの世界を呪う権利がある!滅びてしまえ!全てのものよ、滅びるがいい!!』
まひるはイングマルの精神に、あまり感銘を受けなかった。
言葉の善悪よりも、真っ赤になって、まひるの知らない言葉でどなり散らす態度の方が見ぐるしい。
《猫と狩人》をここまで追いつめたのだから、それなりの人物だろうと思っていたが、実際に対面してみると、非常につまらない男であるのがはっきりした。ガッカリである。
精神的な防壁を砕き、イングマルの心をのぞいてみると、今回の件はたまたまうまくいっただけにすぎず、そのくせ、さも当然という顔をしていただけなのだ。
彼の唯一の才能は、もっともらしいことを並べたてて、自分をエラそうに見せかけること。
狂いっぷりだけなら、まひるは、もっとイカれた精神の持ち主を一人だけ知っている。
それと比較するとイングマルの精神は、異常者として見ても二流だった。
彼にはもう、味方はいない。
すべて、まひるとすわんが圧倒的な力の差で倒した。
イングマルの最大の失敗は、王鳥姉妹の両親の安全を盾に、猫君主へ降伏を迫ったこと。
まひるは、《征服者》が両親を狙っていることを知ったとき、躊躇なくすわんに助けを求めた。
姉にこれまでの経緯をはなし、自分がイングマルと決着をつける間、両親を守っていて欲しい、そう依頼する。
もし、久理数Pに本当の主導権があったなら、この策は決して取らなかっただろう。
彼女なら、猫君主と超級剣姫の共通の弱点である、二人の両親を取引の材料に使うことが、二人が対立関係を超えて協力するに足る理由となることを理解していたのだ……その久理数Pとて、猫君主が持つ、真の力を読み違えていたのだが……
後に、《征服者》から開放されたN篠遊園は、イングマルを評してこう語った。
『イングマル氏には、我々が超級剣姫にとってより最善な敵であるという事実が、理解できなかったのですよ。対象を超級剣姫一人に絞り、その能力高め、最終的に支配するというこちらの意志を、超級剣姫側は正確に把握しています。それを打破するのが困難であることは、むこうも理解しているでしょうが、だからといって、未知の第三勢力により我々が打倒されることが、状況を改善することになるとは、考ええにくいですからね。現時点でも精神作用力を効果的に使えば、政治的、民族的な対立を助長し、地域紛争から世界大戦、果ては全面核戦争を起こすことすら可能なわけです。しかし《猫と狩人》には、そんなことをするメリットがないことは明白です。対する《征服者》は、露骨にその種のテロリズムが目的ですから、私がいうのもなんですが、超級剣姫の敵としては、我々のほうがまだマシですよ。(苦笑)
確かにルールを守らなければ、近道はできるでしょう。マキャベリが君主論で唱えるように、時にはモラルを無視する狐の狡智が必要な場合もあります。ですが、それは露骨に非道を行えということではないのです。善人すぎる者が、時として無能であるように、悪人であることを隠そうとしない者もまた、他者の支持を得ることはできないのです。世の中に、暴君と呼ばれる人はいても、自分を悪と呼び、それで民衆に支持された権力者など、いませんからね……誰だって、自分が正義の側にいたいのですよ。イングマル氏は世界に対する不信感が強すぎるあまり、露骨に近道をしようとした。誰も信用せず、誰にも信用されることを期待しなかった、それが敗因ですな』
『……そもそも、それだけの力があるなら、さっさと世界を粛正したどうだ』
イングマルは懐から拳銃を取りだし、猫君主にむける。
『私に、貴様と同様の力があれば、とうの昔に破滅を実現している。神も悪魔も、汚れたこの世界を修正しようとはしない……だから、この私が、この私が……畜生……だが……現実に……破滅したのは……私、のようだな……これしきの武器で、貴様を、倒せるはずもない……ならば……私にとっての世界を……破壊するまでだ!』
そんな意志を猫君主にぶつけると、構えた拳銃をこめかみに当てて、引金をひこうとする。
「Guuuuuu!」
突如、イングマルがうなり出す。
油汗をながしながら、構えた拳銃をゆっくりと天井にむける。
必死に拳銃を降ろそうとするイングマルだが、本人の意志に反して腕はこきざみに震えるのみ。
そして、イングマルの指が拳銃を放す。
拳銃は落下することなく、重力にさからい、天井付近まで浮きあがった。
イングマルの頭が強制的に上をむき、それを確認させる。
それから左足が勝手に下がり、背後の窓をむく。
すると、天井に浮かぶ拳銃が消滅し、同時に、窓のむこうへ出現する。
横浜の空に浮かぶ拳銃はしばらくすると、炎を吹きながらひしゃげはじめ、やがて爆発した。
その衝撃で窓全体に、細かい亀裂が入るものの、かろうじて砕けずに残る。
その亀裂が、イングマルの視界の中で、ゆっくりと消えていく。
最後の亀裂が消滅したと同時に、呪縛が解ける。
荒い息を吐きながら、膝をつくイングマル。
『こんなことして楽しい?それとも……誰かに、こんなことしたいの?』
いつの間にかイングマルの前に立つ猫君主の手には、爆発したばずの拳銃が握られている。
彼女は銃身をもち、そっとイングマルにさし出す。
呆然としながらも、自らの意志で手をのばすイングマル。
その手が空を切る。
猫君主の体に、空が透けて見えた。
あわてて振りむくと、最初にいた位置で、猫君主が拳銃を手にもち、立っている。
『こんなことして楽しい?それとも……誰かに、こんなことしたいの?』
彼女はもう一度、おなじ意志をくりかえす。
思わず神の名を呼ぶ、イングマル。
それが、彼の限界だった。
敵の手に落ちていた社員達もみな開放され、《猫と狩人》は本来の姿に戻る。
イングマル=ポートマン(四十六歳、男性)は精神を調節され、狩人名、乗満D、猿の存在体を半憑依する社員となった。彼自身の手により《征服者》は徹底的に解体、再編成され、その性質は慈善団体的なものに変質するだろう。一部には、《征服者》の政治力や経済力を利用すべしとの意見もあったが、猫君主はそれらの意見を一蹴する。そんなものに頼りたいとは思わなかったし、実際、頼る必要もない。
だが、この反乱事件の結末に、猫君主は苦い思いをすることとなった。
首謀者である久理数P以外にも、彼女に荷担した社員が何名かおり、それらの《猫と狩人》は、すべての能力を失い、組織にいたという記憶を消去され、ただの人間にもどる。
しかし猫君主は、反乱の首謀者である久理数Pを追放しなかった……いや、できなかったというべきか。
彼女が独自に解析、発展させた半憑依技術には、だれも真似のできないものがあり、たとえ知識をまるごとコピーしたとしても、彼女の後継者となりえるだけの人材が、組織にはいなかった。超級剣姫に勝利したのちも、半憑依技術は発展させる必要があり、そのため彼女を切り捨てる裁定を、どうしても下せなかったのだ。そのため久理数Pは徹底敵に精神を探査され、反抗を禁止する強力な調節が行われた。この処置により、久理数Pの人格は大幅に制限され、彼女はむしろ、外見的に受ける印象とおなじ、無機質な性格となる。自分がかつて、反乱をくわだてた記憶をもっており、それが原因でいまの状況にあることを認識していたが、それを不快に思うことは禁止されていた。
『……どんな形でも、自分が評価されたことは、肯定すべきだと思う』
久理数Pは限られた発言権のなかで、みずからの立場をそう、語っている。
また、過度に久理数Pの協力をさせられたため、一時的に廃人状態となっていた彼女の父親である須磨千秋は、猫君主の手により調節を受け、狩人名、Q艦長、九官鳥を半憑依させた社員となることで回復し、以後正式に久理数Pの補佐役となった。
こうして久理数Pは、ふたたび以前と同様の権限を与えられ、より職務に忠実な技術官僚として、現場に復帰することとなる。
だが猫君主は久理数Pの件が一段落つくと、この事件によって直面した、本当の問題の解決に取り組まなければならなかった。
そもそも、猫君主がミスを犯した原因は、久理数Pがウソをつけない、という前提がくつがえされたからである。精神作用力は、普通の人間がもちえない特権的な能力ではあるが、それが一つの技能であるかぎり,、能力を持つものに同士にとって、決して平等な力ではない。走る能力をもつ者が、走れるというだけでは平等でないように、精神作用力もまた、個人の能力差によって力関係がある。足の速いものが、遅いものを容易に追い越せるように、猫君主を頂点として、力の弱いものの精神は、力の強いものの精神に対して無防備になってしまうのである。
猫君主はこの前提を疑わなかったために、反乱の意図をなかば本能的に察知していながら、久理数Pが用意した偽の記憶を、彼女の本心と思い込んでしまった。このミスのせいで、あやうく組織が崩壊しそうになったわけで、以後おなじ事態におちいらないよう、なんらかの手をうつ必要があった。
どのような処置が適当化かという猫君主の質問に、N篠遊園は、極論すれば組織というものが存在する限り、反乱の可能性は決してなくならないでしょうが、とりあえず、全ての社員の精神をあらいざらいチェックすれば、今現在、組織に反抗の意志のあるものは判明するでしょう、ということだった。
猫君主……というより、王鳥まひる個人としては、他人の精神に土足で上がり込むような真似はいい加減、もういいやという感じだったし、極端に意見の合わない相手は、そもそも仲間にしないのだから、精神作用力による制限を守ってさえいれば、好き勝手にやってかまわないと思っていた。しかし、こういう事件が発生したとあっては、組織を運営する者として、N篠遊園の意見を採用せざるをえなかった。
方法は一対一の面接形式で、猫君主の質問に答える形で対象者の記憶から深層意識までを洗いざらいチェックする。これは、全ての社員が対象となり、猫君主自身は、面接ずみの社員が複数、チェックにあたった。結果として、大幅な異論者はいなかったものの、多少なりと組織のあり方に意見のあるものが数名、リストアップされる。猫君主は、これらの者を追放したり、再調節したりはしなかったが、彼らが組織内で反乱予備軍のレッテルを貼られるのを、禁止したりはしない。それが、妥当な処分に思えた。
N篠遊園の精神を探査したときに知った知識で、反乱を鎮圧したはいいが、再び反乱が起こるのをおそれるあまり、かえって多くの血を流した権力者がいた、というのが、ひどく猫君主の印象にのこっている……苦い経験だった。
十五
水無原誠が、千春御ミキに話している。
「なんで……」
呆然とつぶやくミキに、しかし水無原は、無情な言葉をなげかけた。
彼女にはその言葉が理解できない……いや、したくない。
水無原は淡々と、なぜ君とはつき合えないか、という理由を説明している。
だが、ミキにはその意味を理解し、反応することはできない。
言うだけいうと水無原は、家まで送るよといったが、何も反応しないミキをしばらく見てから、さよならとだけ言って、去った。
場所は横浜、山下公園。横浜港を左手に、みなとみらい21地区を背後に、ミキはとぼとぼと歩く。
すこし遠かったが、歩いて帰れない距離ではない。
氷川丸の前を過ぎ、マリンタワーのほうへと向かう。
秋晴れの、うららかな一日。
休日の午後。
たゆたう、ひつじ雲。
きもちのいい風。
秋色の服に身をつつんだ少女は、ぼんやりと理解した。
フラれたんだな……と。
夕方になり、ようやくミキは、見慣れた烏鷺帆町の住宅街にたどりつく。
どこをどう歩いたか、まったく記憶にないことにすら、気づかない。
だからミキは、歩む先の右手にある、電柱わきのコンクリート塀によりかかり、彼女をじっと見つめる少女がいることにも、当然、気づかなかった。
そのまま少女の前を通りすぎる、ミキ。
少女は二つの瞳と、頭に生えたねこ耳を、ミキの歩みにあわせて左から右へ、動かす。
うしろで腕を組み、しっぽをゆらゆらさせている。
そしてそのまま、ミキが通りすぎるのをじっと見ていた。
一度、ショートカットの髪をかき上げてから、言う。
「ちはるお姉ちゃんも、大変だね……」
少女はそうつぶやいたあと、遠ざかるミキから視線を外し、空を見る。
紅に染まる空の、満天にたなびく筋雲と、一番星。
その空へにじみ込むように、少女は消えた。
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