![]() ── その一、すわんと猫と狩人と ── ★ Illustration Top:01 ★ 一
少女がそこに立ったとき、事態はすでに終局を迎えつつあった。 時は世紀末、 場所は日本、横浜市中区、打越と 切通しの谷間にかかる、ここはオレンジ色の橋の上。 数十メートル下にある切り通された道路には、車が放つ二条の光が流れ行き交う。 その片方の流れの先に遠く、みなとみらい21地区の超高層建築がそびえる。 すわんの足元には、首輪をしていない雑種の白猫が、血だまりの中に倒れているのが見える。 ひくひく その白猫を 車の脇に、 どちらも小麦色に陽焼けた、いかにも遊んでいるふうの若者達。 その若者のうち、女性の方は状況を理解できずへたりこみ、すわんが剣を向ける対象である少年をぽかんと眺めている。 その、すわんと同じ学校の制服に身をつつんだ少年は、あくまでも無表情に立ちつくしている。 下校途中、たまたま現場にに出くわしたとでもいいたげな姿。 すわんと同級か、あるいは一つ下の少年の頭部にはしかし、人間の耳とは別に、獣の耳──おそらくは犬の耳──が一対、生えていた。 少年は、剣を構えるすわんを完璧に無視し、青年を右手でつかみ上げながら、左手で顔面を殴りつけている。 バシッ、バシッ、バシッと断続的な音が響く。 みるみる青年の顔が腫れ上がる。 少年は視線を青年にすえていたが、犬の耳は小刻みに周囲をうかがっていた。 すわんが彼女なりに、状況をどうにかしようと努力しているのに対し、同乗者の女性はなにもしないどころか、なにが起こっているのかすら、理解できないように見える。 頼れる人間はいない、すわんはそう考えて、剣を構え直す。 構える剣は、もうもうと蒸気を吐き続けていた。 鍔の上部に固定された、三ツ眼のメーターが小刻みに針をふるわせるのが斜めに見える。 すわんの身長の七割はある すわんの記憶に間違いがなければ、カーボンファイバーの芯にプラスチックとバルサ材で肉付けした、単なる芝居の小道具のはずである。 二
そもそも今日のすわんは、朝からさっぱりだった気がする。 寝坊はするわ、コンタクトはなくすわ、遅刻ギリギリのタイミングで信号が赤になるわ、授業では毎時間さされるわ、タマゴサンドは売り切れるわ、つり銭間違われるわ、 『ああっ!も、ナンでこう、ついてないんだろっ!』 続けてすわんは乱暴な言葉をいくつも並べながら、 すわんは小学校のころ受けた厳格な 彼女をはたから見れば、 長身に、なめらかな曲線で構成される体の起伏。 腰までのびる切りそろえた黒髪に縁取られる、白い頬と朱の唇。 深く輝度の高い眼と、 白と黒のコントラストが鮮やかな制服は、体の線を引きしめる。 緊張状態でも無意識に保たれる、優雅な 貼りついた笑みを浮かべる それをすわんは努力もなしに、生まれながらにもっている。 彼女としては、別にそれを望んだつもりはないが、人並に チヤホヤされたいわけでもないが、わざと冴えない格好をするのも少し違うと思う。 ──ちなみにすわんがかけている眼鏡はセンスのよいブランドもので、彼女の造形をひきたてこそすれ、むやみに美人を不美人に見せるような野暮なものではない── むしろ、せっかく生まれついたこの容姿を、有効に使ってもよいのではないか?とも考えている。 このあたり、すわん自身も考えに筋が通っていないなと自覚している。 あまりにも整った容姿をしているとはいえ、すわんは中学二年生。 悩み多き大人と子供のハザマにいれば、そういう矛盾は増えこそすれ、そうそう減るものではない。 三
すわんは橋の上の惨状を前に剣を構えつつも、ずっと無言で静止していた。 何もしないのではなく、どう制止したらいいものか、わからないのが本音である。 だが、それもさっきまで。 『つまりこれは、お芝居なんだ……そんなら、どうすりゃいいのかわかったモンね、エヘン』 すわんは深呼吸をし、ちゃんと腹式呼吸ができているかを確認する。 とっさに正しく発声できるかは、これまでの練習の成果による。 即興でセリフとポーズを考えると、一気に演技した。 その少女は突如沈黙を破り、 「……そこの君、暴力はおやめなさい!」 空気が一瞬、空間ごと硬化する。 現代少女の言葉づかいとして適当かどうかはともかく、すわんの容貌とこの非現実的な状況で発せられた言葉は、有無をいわせぬ説得力がある。 ……はずなのだが、ゲシッ、ゲシッ、ゲシッと殴り方が心持ち激しくなっただけで、犬耳少年の暴行はすわんの制止とは無関係に続く。 『ひっとが、ビシッとキメたってのに、シカトかいっ!』 すわんは内心ではムカツキまくりだったが、表面的にはかすかに眉をひそめるだけにとどめた。 その途端、犬耳少年が青年を放り出す。 倒れた橋の欄干から、下に落ちそうになる青年を、同乗者の女性が必死に抱きとめる。 『……えぇ?』 獲物を捨てた犬耳少年が、こちらに向かってゆっくりと歩いて来る。 『やっばぁ……』 四
犬耳少年はすわんの前にしゃがみこみ、血で制服がぬれるのも気にせずに、横たわる白猫を抱えあげた。 そして、あいかわらずすわんを無視して道の反対車線にどく。 犬耳少年が前を横切ると、すわんの視線が遠くにむけられた。 オレンジ色の橋のむこう側に、青とクリーム色に塗り分けられた、横浜市営バスが止まっているのが見える。 『ちょっと……まさか……?』 自分が新たな標的にならなかったことで、ほっとするのもつかのま、さらに変な事態が発生しつつある気がした。 そのバスは、すわんの嫌な予想通り、これだけの惨状と異常に満ちあふれた橋を、ゆっくりとわたり始めた。 呆然とすわんが見送るなか、バスは徐行しつつもためらいなく橋をわたりきる。 途中で見えたバスの中には、運転手や数人の乗客の影があったが、その誰もこの状況に気をとめる様子もない。 すわんは内心の驚愕を表に出すことはかろうじて避けたものの、バスを止めて助けを求めるような真似はとてもできなかった。 『なに?……世の中みんな、おかしくなっちゃったの?』 すわんが心の中で すわんはいまさらながら、自分が非常にヤバい状況にいることに気がついた。 そもそも、橋の下を走る車の流れが滞らないのは何故なのか?上から車が落ちて来る危険は感じないのか? あれだけ大きな音がして、騒ぎを聞きつけてやって来る人間は、本当にすわんだけなのか? 『ひょっとして、誰もこの事件が目にはいってナイんではないかい?そうだ、そうだわ。そういや、こんだけオオゴトんなってんのに、パトカーや救急車もきてないよぅ!ど、どうしよ。にげよっかなぁ?……で、でもあのおにーさん、ワタシがナンとかしないと、きっと殺されちゃうよ』 すわんは不正が絶対ゆるせない、というタイプではなかったが、不正を見過ごしても平気でいられるほど、割りきった考え方はできない。 「ぎっひゃあぁぁぁぁ~!」 絹というよりは すわんの意識が、しばらく周囲からはなれている隙に、足元に白猫をおいた犬耳少年は再び青年をつかみあげ、今度は腹を殴り始めた。 青年は、もはや苦痛に顔をゆがめることもせず、ただ殴られるにまかせている。 『ええい、もぅ見てらンない!こーなったら、ハッタリでもナンでも、どうにかしちゃるしかない!』 すわんはそう、決心した。 やると決めたら、迷わない!それがすわんの信条だった。 五
彼女がしようとしてること、それは、『本当に、真面目に、 『彼女なら、こーゆーヤカラを退治するのが仕事なんだから、こわくないモンね!』 あくまでも演技をつらぬくということで自分を納得させると、すわんは超級幻我に視線を落とす。 もうもうと蒸気を吹きだしながら剣の 巨大な この壜は仙界の泉につながっており、ここより破邪の力をもつ液体、 蒸気とは字を変えれば浄化する気、つまりは浄気であり、この浄気を帯びた剣がつらぬけば、いかなる邪気をも祓うことができるという、希代の退魔剣である。 ひとしきり刀身をながめたすわんは手首をひねり、剣をかたむけて、三ツ眼のメーターの針を読む。 左上が 正確な読み方など、あるのかどうか知らないが、左上の 白と黒の円が互いに交じり合い、ひとつの円を形成する、陰陽マークを文字盤にプリントした それは目の前の犬耳少年の正体が、強力な陰の気を持つ者であることをしめしている。 裏面には、柄に組み込まれた その上には小さな楕円形のプレートが、四隅をネジ留めされており、横書きで右から左に、
と書かれている。 すわんはこういう、変にチマい所へのこだわりが、けっこう好きだった。 いままですわんは剣にまつわる設定を、単に芝居の上だけのものと思っていた。現実と芝居はちがうものだと思っていた。 だが、いざ本当に超級剣姫になろうと心に決めると、剣が蒸気を吹いていても、それ当然のように思えて来る。芝居の小道具だから変なのであって、本当の超級幻我なら、蒸気を吹いた程度は驚くに値しないのではないか。 『こーなりゃもう、、アレをやるしかないですわねぇ』 すわんは再び気持ちが昂揚するのを感じている。 舞台は異空間である、演劇部の先輩に教わったが、確かにそうだと実感する。 ここはすわん演じる超級剣姫のためにしつらえられた、 六
沈黙していた少女は剣を左右に振り、自らが頼む武器を確かめてから、一歩前へでた。 すわんは剣を頭上に掲げると、不思議な口上を、かぼそく、だが魂の奥底から絞り出すように、文語で思い、口語で唱えた。 いわく…… 『 「 蒸気はすなわち その名も すわんの口上と同時に、かつてない勢いで、剣から蒸気を吹く。全身をふたたび耐えられないほどの熱気がめぐるが、それは一瞬のこと。 なかなか演出が効いてるなと不敵に感心するすわん。 すると、いままですわんを完璧に無視していた犬耳少年が、耳を、次いで視線をこちらにむける。 すわんは犬耳少年の視線を、決意と自信に満ちた眼で真っ向から受ける。 そこで犬耳少年は、はじめて口をひらく。 「あなたのことは 行動や容姿にくらべ、随分まともなしゃべり方だった。 だが、すわんが引っかかったのはその内容。 『うげえ、なにコイツ。わたしのこと、しってるぅ~』 と、口にはできないので、すわんは内心の動揺を押さえこみ、威厳を保って聞いた。 「あなた 犬耳少年すわんの言葉を聞くと、さも面白そうに笑った。 「王鳥先輩の考えてることって、態度とちがってずいぶん、子供っぽいんですねぇ」 「……えぇ?」 すわんは思わず、表に出すべきでない内心を口にしてしまった。 『な、ナンなのこのコ。わたしの考えてること、わかるってのぉ?』 すかさず犬耳少年がこたえる。 「ええ、もちろん。さっきからずっと聞いてましたよ。なかなか笑えること考えてるじゃないですか」 軽い侮蔑をふくんだ笑い。 すわんの顔が、かすかに赤くなる。 「ああ、最初の質問にまだ、答えてませんでしたね。僕は先輩とおなじ学校ですから、もちろん知ってますよ。なにしろ先輩は、有名人ですからねぇ」 すわんはただ、沈黙しているほかない。 「僕の名は いまさら驚くほどのことでもないが、犬耳少年── 「まあ、安心してください、先輩。僕はこの人を殺すつもりはないし、先輩とはまだ闘うなって厳しくいわれてますんでね。いずれはお手合わせねがうかもしれませんが、今日はとりあえず失礼させていただきます」 それだけいうと、 それはもう、プライドがズタズタのすわんには、 「グシュッ」 すわんの足もとで急に、クシャミともセキともつかない声がする。 見れば、 車に跳ね飛ばされたはずの白猫はふらつきながらも、 明確な意志をもって歩きだす。 一方、橋のむこうでは、 『オイ!いつまでボケッとしてやがンだ。さっさと奴を追っかけろよ!』 今度は頭のなかで、耳慣れた悪ガキ声がひびく。 すわんは頭で考えるよりはやく体が反応し、 七
落下中、自分がなにをしているか認識しても、すわんは別におどろかなかった。 手に持つ剣が、激しく蒸気をたなびかせている。 全身に風を感じながら、地面が見るみる近づく。 『どーせワタシは、考えが子供っぽいわよっ!』 すわんはとことんヤケクソ気味に、空中で一回転すると、道の中央に着地した。 すわんが車道の真ん中に飛び降りても、左右の流れはとどこおらない。 内心、苦々しく思いながら、すわんは冷静に超級幻我をたずさえ、走りだす。 そのとたん、急にバランスをくずしかける。 感触からすると、両足の靴底がぬけてしまったらしい。 こわれた靴を引きちぎるように脱いだすわんは、ハイソックスが擦り切れるのもかまわず走る。 車の流れにあわせて道を横断したすわんは、崖の上からなだらかに降りて来る道との合流点のはるか手前で、柵を含めて約五メートルの高さを一気に跳躍し、ゆるいかけ足で降りて来る 「どうか……しましたか?」 はじめてすわんと会ったかのような態度。だが、その胸元には、さっきの白猫の血がべっとりとついている。 すわんは構わず、渾身の力で超級幻我を真上からふり降ろす。 瞬間、 すわんはすかさず、劇でおぼえた構えを決めた。 静寂。 片膝をつき、真一文字に剣を構える少女と、坂の上方でうつむき加減にしゃがみ込む少年。 少年が顔を上げると同時に、頭部に犬の耳が生え、顔全体があらわになると、顔面に薄く体毛をはやし、牙をむき、両手の爪をのばすと、さきほど以上に野獣じみた容貌を完成させる。 「 細かいことは気にせずに、すわんは超級剣姫としてたずねた。 「グルルゥ……ヴワァン!ヴワァン!ヴワァン!」 対する すわんは微動だにしない。 だが犬耳少年が、すわんのいた位置に爪と牙を立てた時、彼女はすでに上空を舞っていた。 状況を理解できず、あたりを見回す 『このままヤッちゃえば、アイツを確実に倒せる!』 すわんはそう、確信していたが、同時にそこまでする必要がどこにある?という気もしている。 あまりにも異常なことが起こりすぎて、なにが普通で、なにが変なのかをいちいち考えるのも馬鹿バカしかったが、いくらなんでも剣でつらぬくのはやりぎだと、この状況のすわんでも思う。 こんなことで、殺人犯にはなりたくない。 そんなすわんにはお構いなしに、 『ナンなのこの子、キレたら見境いナイじゃない!』 などと考えている間に、食らえば確実に命を落とす数撃を、なんとかかわす。 『えーん、どーしたらいーのよぅ!』 なにがなんでも冷静そうに、 八
『だぁーっ!いつまでこんなザコと遊んでンだよ!』 再びあの声が、すわんの脳裏に響く。 『うっさいわね!これでもガンバってんの!そもそもあんたのゆーこと聞いたばっかりに、こんなめに遭ったんでしょうが!だいたい、橋の上から飛び降りたのに、ナンで平気なわけよ!ダレか知んないけど、説明なさいよ!』 思わずケンカ腰に考え返すすわん。 『オメーはむつかしいこと考えるガラじゃねぇだろぉが!ようはヤツを、オレで斬りゃいいンだよ!』 なにかいい返そうとして、すわんは一瞬、動きをとめた。 『……オレってアンタ、この剣なの?』 声はしばらく その間も戦闘は継続されている。 今も高速の牙が、すわんの体をかすめたばかり。 『……ああ、そうだ、そのとおりだからオレの話をきけ!』 その声は、うざったそうに認めた。 『いいか、この超級幻我は退魔の剣だ。邪悪なモノ以外は斬りようがない。斬れるのは奴の邪悪な部分だけだから、奴自身は死なん。こころゆくまでブッた斬れ!』 『でも……』 『デモもスタート画面もねぇ!……って、やべえ!』 超級幻我の意識がそう警告するように、意識のやりとりに夢中でおざなりに闘っていたすわんに対し、 あわてて対応しようとするすわんは、ちょうど落ちていた空きビンを踏んで体勢を崩す。 『ンのぉ!』 真後ろに倒れ込んだすわんは、考えなしに剣を前方に突きだした。 そこにちょうど、 剣は犬耳少年の胸を、深々と刺しつらぬく。 同時に激しく吹き出した蒸気が、視界を白煙で満たした。 九
たしかに それどころか、剣による刺し傷すらない。 すわんは自分が最初に すわんはどちらの時も、たしかな手ごたえを感じたはずなのだが…… よく見れば、 実は全部夢だった……と思いたい所だが、坂道の先にあるオレンジ色の橋の上には、あいかわらずあやうい均衡を保ったままの四輪駆動車が見えた。 一方、すわんのほうはといえば、怪我こそなかったが、靴下が擦り切れ、ブラウスの袖は抜けかかり、底の抜けた靴が車道に落ちている。眼鏡がなくなっていないのは奇跡的だった。 ともかくすわんは、 ただ、あの橋の上にはもどる気になれなかったので、匿名の電話で救急車だけ呼び、橋を通らない別のルートで引き返した。 むやみと熱いすわんの体や、超級幻我の蒸気の噴出は、 さいわい、橋の上で投げ捨てたはずの剣の鞘カバーが見つかったので、とりあえずかぶせておいた。それにどれほど意味があるのか、わからなかったが。 それでもまだ、元犬耳少年を軽くかつげたので、すわんには変な事態がまだ終わっていないことがわかっていた。 その道すがら、すわんはふと、 すわんがテレビや雑誌、その他うわさ話などから得た知識をまとめるとこうなる。 二ヶ月ほど前から、横浜近辺で動物虐待をおこなう人間に過激な制裁を加える、謎の一団のことが話題になっていた。 そのボスの名が、たしか なんでも、犬を捨てた飼い主とか、猫を轢いたダンプの運チャンとかが、次々と半殺しのめにあったという。 変な奴にやられたという証言は多数集まったが、なぜか具体的な犯人の人物像が特定できない。 動物虐待の現場に現れては、当事者をリンチするという手口はいつも同じはずなのに、犯人の顔どころか、性別すらはっきりしなかった。 そういうわけで、ともかく謎の一団だろうといわれている。 連続暴行事件がしばらく続いたのち、《 内容は、人類の非人類生物に対する非道を糾弾し、即刻全世界の動物虐待を停止し、世界の主導権を明け渡すよう、主張していた。 動物をいじめるから、いじめ返そうというセコい発想と、いきなり世界降伏の勧告へ飛躍する展開に、したり顔の批評家や学者が、好き勝手な憶測をがなりたてていた。 が、内容があまりにもナニでアレだったので、もっともらしい理屈を並べるほど、逆にうさん臭く聞こえるばかりで、最近ではそういった話題も影をひそめている。 我々は動物愛護を理由に、暴行を正当化する野蛮な連中とは違う、といいたいらしい。 そんなこんなで、《猫と狩人》の事件は、マスコミ的には 『なぁるほどぉ……コイツがあの《猫と狩人》かぁ』 以前ホームルームで、登下校の際は十分注意するようにとのお達しがあった気もするが、すわん通う横浜市立 『犯人が正体不明なのって、やっぱ精神を操作できるからナンだろうなぁ……』 『こいつらは周囲の人間の精神を操作できるから、逆にやっかいなことになりかねない。どっか、邪魔されずにこいつを尋問できる場所をさがせ!』 そういうわけで、すわんは適当な場所として、 すわんが商店街を歩いていると、橋の方へむかう救急車とすれ違った。 とりあえずひと安心、という感じである。 どうやら橋の上の異常には気づいたようだが、かなりヤバげな格好のすわんに、道行く人々は関心を持たない。彼女に視線をむける者もいるので、まんざら無関心を装っているわけでもないようだ。 すわんとしても、この状況で気にかけられるのは迷惑なので、とりあえず気にしないことにした。 『……ま、とりあえずいう通りにしたけどさ、アンタ一体何者なワケ?どっかで聞いた声だけど……』 すこしは気持ちがおちつくと、すわんは剣の意識に対する、根本的な疑問を考えた。 対外的にはあいかわらず神秘性を帯びたふうの、いたって怜悧な表情を保ってはいたが、さすがに疲労が顔に浮かんでいる。 『ま、くわしいことは谷々の家で話すさ。奴とも話しときたいからな……けどよ、すわん。いいかげん、オレの名前ぐらい、思い出せよな』 『ええっ?でも、アンタと話すのは今日がはじめて……』 『たしかにそうだがな、超級幻我の精霊の名前は知ってるはずだぜ』 『そんなら、たしかゲンガっていうハズだけど……!?……って、アンタがそのゲンガなのぉ?』 『ほかに、誰がいるってンだい?』 『だぁってぇ、だって!だって!だってぇ!……ゲンガって、剣の持ち主の心の影でしょぅ。ワタシの分身が、ナンでそんなにガラ悪いのよぉ?』 『ンなもん、オレに聞くな!テメエ自身が、オレを創ったたんだから、オレにはどうしようもねぇ!』 『でもっ!でもっ!』 『るせー!ともかくオレはゲンガだ、はい、決定な!』 こうして議論は打ち切られた。 十
なにはともあれ、すわんは無事に さきほど訪れたばかりの JR根岸線 六角形の塔屋をもつ木造二階建ての建物自体も、外装がめくり上がり、いたる所ペンキがハゲている。 明治時代末期に建てられた、米国人建築家の手になるアメリカン・ヴィクトリア様式の洋館は、この手の建物が珍しくない山手町近辺でも、別格の怪しさをまきちらしていた。 時刻は夕暮れから夕闇にうつりかわり、館は外灯に照らされた場所のみ、その姿を明確にしている。 すわんは剣をもち、 玄関のほうで、ちいさくビービーなる音が聞こえていた。 「何か用か?」 そう聞いてくる声は、すわんの背後からやって来た。 内心、びくりとしながらも、なめらかな身ごなしでふりむいた。 彼女の前に立っていたのは、眼の下にクマをつくり、見るからにやつれている……だが、それすらも自らの美点に変換できるだけの顔立ちをした少年だった。 自分の顔を見なれているすわんですら、ちょっといいかな?と思わせるだけのものをもっている。 「ええ、 弟が今一地味なのに対し、兄樺良はなにかにつけて目立ちまくる行動が多い、中学三年生。 ペットクラブ部長のというフレンドリーな肩書きの裏で、かなりヤバげな活動をおこなっているという噂。 嘘か誠か、黒魔術に傾倒し、夜なよな黒ミサをひらいているとかいないとか。 ただし、ペットクラブに在籍しているすわんの妹の話によれば、谷々樺良は最近ほとんど登校しておらず、病気説を筆頭に、失踪、発狂、入信と、さまざまな憶測が飛び交っているらしい。 そういういかがわしげな所が魅力なのか、すわんのクラスメートにも、 「フン、鯖斗の奴も、メスのチキューケナシザルに目覚めたか!」 樺良は、端麗な顔を 「だいたい、これだけ地球の生き物に迷惑かけて、まだ増やそうってのか?少しは減らすことを考える知恵をつけたらどうだ?」 樺良はしばらく沈黙をはさんでから斜に構え、髪を掻き上げながらニヤリと笑い、言葉を続ける。 「僕がしかるべき権力をえたあかつきには、チキューケナシザルを排除して、愛らしぃーい犬猫がしあわせに暮らせる世界を創造してやるからな!」 こんな調子で問題発言をいくつか連呼してから、樺良は自宅の門前にあらわれた少女の反応をうかがった。 当のすわんは、どうやら馬鹿にされているのだなとは思ったものの、樺良のいっていることが八割方理解できなかったので、そういう時に決まってするように、曖昧な微笑を浮かべて黙っていた。 樺良は軽く舌打ちしてから、実はよく見もしなかったすわんに注意をむける。 彼女が担いでいる少年に気づくと、樺良はちょっとだけ眼を見開いた。 「この方を御存知ですの?」 やっと話せる話題を見つけたので、すわんは間髪いれずにたずねた。 樺良は目線をそらし、沈黙する。 『アヤしい……怪しすぎるよこの人』 それに、さっきの話をすわんなりに考えてみると、自分の都合で地球を勝手にいじりまわし、動物達をしいたげている地球人類はゆるせん、俺がシメちゃる。そんな内容だったと思う。 『それって……《猫と狩人》と同じ発想じゃナイかしら?』 ゲンガはさっきから沈黙している。 『ノーコメントってことは……どーゆーコトなんだろ?』 「おい、そこにいるのは王鳥か?」 館の庭から声がした。 まぶしい光。 見れば、懐中電灯を持った少年が、二階の窓から顔を出している。 「谷々君……」 内心、へなへなと力がぬけて行く感覚。 今日一日で、あまりにも多くのことを体験をした気がする。 だから、変わらずにいる鯖斗の顔を見ているだけで、もうすべての問題が解決してしまったかような安心感に、満たされていた。 自分だけですべてを解決しなければならないという状況が、どれほど自分にプレッシャーをかけていたのか。すわんはやっと、それを自覚することができた。 樺良はオモチャを取り上げられた子供のように、さもつまらなそうな表情で、館の中に消えて行く。 ちょうど、家から出てきた鯖斗と入れ違い。 鯖斗はしばらく、樺良を目で追ってから、すわんのほうに近寄ってくる。 「なにがあったんだ?兄貴になにかいわれたのか?それに、そいつは……あ、ごめん。ま、とにかく、うちに上がれよ」 自分のことを心配してくれる人がいる。 ただそれだけで、すわんは泣きたいくらいうれしかった。 ひょっとしたら、本当に泣いていたのかもしれないが、瞳にさわって涙をたしかめたりはできない。 かわりにす、わんはとびきりの笑顔を見せて、心から鯖斗の申し出に応えた。 「うん、そうする。そうするよ……谷々、ありがとっ」 十一
同刻、ライトに照らされたオレンジ色の橋の上では、事故車両の撤去が行われていた。 橋と橋の下を通る道は、どちらも通行止めになっており、上でも下でも、ロープで区切られたぎりぎりまで、やじ馬がつめかけている。 何者かに暴行を受けた乗員は、すでに同乗者とともに救急車で運ばれており、警察関係者が写真を撮ったり、聞き込みをしたりしている。 「なにが起こったんだ?」 だれともなく問う声がする。 「橋の上で、事故があったみたいだよっ」 少女は答えた。 「おつ!本当だ……スゲエ、車が落ちそうになってる」 「どんなふうになってる?」 背が低い少女には、人垣のむこうの様子がよく見えない。 「うーん、落ちそうな車をひっぱりだすためのクレーン車が来てるな……あと警官が、なにかな……学生カバンみたいなのを持ってるな……」 「カバン……て、どんな?」 どう説明しようかと考えてから、声の主──大学生くらいの青年──は、「ちょっとゴメンよ」と声をかけて、少女をほいっと持ち上げた。 「見えるかい?」 「うん、見える!どーもありがと……うーん……あっ、ちょっ、お兄さん、ちょっとおろしてくれる?」 どうしたんだい?と青年が声をかける間もなく、着地した少女は前方に駆けだした。 「すいませーん、道をあけてくださーい!」 少女がそう声をかけると、人垣がさあーっとわれて、人間一人がちょうど通れる道ができた。 ひょいひょいっと少女がそこを通り、人止め用にわたされたロープをくぐると、人垣はまたもとにもどる。 周囲から、カシャカシャと写真を撮影する音がするのをちょっと気にしてから、少女はカバンをもった、警察の鑑識課の人間にあゆみよった。 「そのカバン、ちょっと見せて」 少女がそういうと、鑑識は無造作にカバンを渡す。 指紋も気にせず受け取って、カバンを確認しながら、少女はいう。 「これ、おねえちゃんのだから、返してもらっていい?」 うなずく、鑑識。 「どーも、ありがとっ」 少女はにっこり。 それからさっきと同じように、人垣を割って橋のたもとにもどった。 「お兄さん、バイバイっ」 「バイバイ、お嬢ちゃん」 にこやかに手をふりながら立ち去る少女に、あいさつをかえしてから、青年は視線をもどす。 それからふと、青年は考えた。 自分はいま、だれに手をふったのかと。この現場に来てから、まだだれとも口をきいていないはずだ。 気のせいか……青年は、そう自分を納得させると、ふたたび事故見物に集中し、二度とそのことは思いださなかった。 |